和食の歴史

「食のるつぼ」とも言われる日本は、いまや「イタリア本国よりもおいしいイタリアンを食べさせる」と言われる名店も軒を連ねる美食大国ですが、それでも1日に1食は和食(米食)でなければ、という日本人は多いのではないでしょうか?パンやパスタでは食べた気がしない、という人も少なくありません。――ここでは、そもそも日本列島でなぜ米が栽培されるようになったのかや、日本以外の国の米文化との関わりについて、そして古来、接待料理、精進料理、本膳料理、懐石(会席)料理など「和食の基礎」とも言うべき各スタイルがどのように成立してきたのかと、そのおのおのの特徴などを見てゆきます。一流の和食が、食材の旬を逃そうとせず、四季を感じるしつらえにこだわるようになった理由も見えてくるかもしれません。

米のルーツ

昼をはさむ打ち合わせや勉強会、新ツールの説明会やプロジェクトの決起会などなど、予算が限られた中でも参加者に満足してもらわなければならない……。手配者にとってのそんな難題解決には、いわゆる高級食材は使っていないけれど、良心的な仕入れとプロの調理技術で仕上げた、誰もを納得させるこんなお店はいかがですか?

日本列島は、緯度は高いもののモンスーン地帯に属し、温暖で雨が多いために稲作が可能だったと言われます。

とくに雲南の24の少数民族のなかでも「タイ族」は古来から水田稲作を営み、それにもとづく社会と文化を形成してきました。とくに漢民族も日本民族も食べる「ちまき」の源流は雲南の少数民族であるという説があります。また雲南の「プーラン族」は焼畑農耕の民族で、赤米、すなわちウルチ米とモチ米を常食としていました。

実は中国、雲南省が日本人、日本文化のルーツであるという説があります。稲作の歴史、米食に関しても雲南省と日本とでは共通性がみられます。たとえば中国、思芽(スーマオ)から景洪の間の低い低地には、広大な水田があります。

タイ族の食生活は一日3食、朝は米のご飯に味噌汁、豆腐料理、漬物。昼、夜はそれに動物性のもの(豚肉など)が混じります。

実は日本人の祖先は列島に来る前から米食を知っていたのではないか、という説もあります。

柳田国男も、日本人の祖先は、イネの種子とともに南から渡来したと主張しました。日本人の主構成はもともと稲作民族で、南西の島伝いに渡来した、というのです。長年にわたってイネの育種の研究をした農学者の安藤広太郎も、日本の稲作は、中国江南地方で米を常食としていた南方民族が北九州に入って稲作を伝えたことに始まる、と言っています。そして、伝来した稲は江南地方で栽培されていた「ジャポニカ型うるち米」だった、とも。

日本人が米の中でも丸く短い「ジャポニカ型」を選んだのは、インド型よりも耐寒性が強いから、また、梅雨期のじめじめや夏前のむっとするような暑さは、住む人間には不愉快きわまりありませんが、稲の花や芽を分化し、穂を出すプロセスには好都合です。

日本の土壌は「酸性黄褐色、褐色森林土」という、養分があまり豊かでなく酸性が強い土です。水をはった水田では酸性の効果は消えますし、そもそもイネは酸性に強い穀物です。ですから、田に水をはって雑草取りさえすれば、まったく肥料を与えなくても栽培可能でした。

また、ジャポニカ米のほうがデンプンの性質上、アミロペクチンの量が多いために粘りがある反面、香りはなく淡白で、刺身や焼き魚など味が薄い料理に合うからと言われます。インディカ型の米は炊くとほんの少しですが香りがあって、ピラフ、パエリア、カレーなどに合います。

また一方、今日の日本の全ての地域で稲作が行われていたわけではないようです。たとえば、北海道と沖縄には稲作が根付きにくく、このエリアでは、古代以降の日本が「けがらわしきもの」として排除する傾向があった肉文化が発達しました。北海道と沖縄、この南北二つの地域は、「日本国」に組み入れられるのは明治時代以降でもありました。


1.接待料理

参加者の年齢層が幅広く、しかも男女両方が含まれる大きな会議やセミナーには、いわゆる平均的な和食のイメージと期待を裏切らないバランスの取れた和弁当を。また、好き嫌いにも対応できる、主菜の品数が多いお弁当はいかがでしょう。

日本で最も古い料理様式は、「神饌料理」だったと考えられます。神饌料理と関係が深いものは接待料理・宴会料理。奈良時代の皇族、長屋王の邸から出土した長屋王家木簡などから、奈良時代には既に貴族社会で接待料理の形式が成立していたとも推察されています。また平安時代、貴族の社交文化から生まれた宴会料理に「大饗料理」があります。

こうした料理は一定の様式も伴い、神仏にも捧げられたと考えられます。そうした意味では神々への「神饌」を起源と考えてよいでしょう。

もともと「神饌」は、食べ物を神に捧げた後に、祭祀に携わった人々が神と共に食べるもので、調理を済ませた「熟饌」が基本となる。しかし明治以降は、食材に手を加えない「生饌」が中心に変わったので、元来の形式が不明になってしまいました。

現在わかる中で最も古い料理様式が、「大饗料理」。大饗料理は、藤原氏など高位の貴族が、大臣に任じられて、あるいは正月などのハレの場に、天皇の親族を招いてふるまった儀式料理です。

もっともこの時代の料理は、せいぜい生の食材や干物などを切って皿に載せただけのもので、めいめいの手元前におかれた小皿に塩や酢、醤などを自分でそれにつけ、食したと思われます。料理の一番原始的な姿です。

韓国でコチュジャンなどがテーブルに置かれますし、サムゲタンなども、食べる直前に塩・コショウをつけてめいめい味を調整します。ギリシャなどでも、塩・コショウ・ワインビネガー・オリーブオイルなどがテーブルに置かれ、自分で味付けを調整します。これらもまさに大饗料理と同じですね。

ほかにも大饗料理では、料理の種類は、もてなす客人の身分によって料理数は異なりますがいずれも偶数、手元には箸とさじとが用意されています。もっとも、大饗料理で使われたさじは一般には広まりませんでした(朝鮮半島では定着したようです)。

しかも大饗料理は、皿がテーブルの上一面に並ぶ様子が朝鮮半島の「韓定食」にそっくりで、朝鮮半島経由で入った中国料理の影響を強く受けています。小麦粉を練って油で揚げた「八種唐菓子」が添えられることなどからも明らかです。

古代、位の高い貴族の間で使われたこうした儀式料理、「大饗料理」は、中国の法律体系「律令」を模倣したのと同様、中国からの文化を真似たものであることは間違いありません。ただ、大饗料理の「日本的な特色」は、「切る」という調理法。料理人も「庖丁人」と呼ばれました。

日本の神饌の特徴は、切らずにそのまま食材を串などに刺し、積むように盛った朝鮮半島スタイルと違って、職人の技で切った食材を切り口を見せながら重ね盛りしたことです。

――たとえばある参加者にとって嫌いなおかずが主菜だった場合、食べられなくて午後は空腹!という悲劇が起こります。これを防ぐためにも、主菜が複数、という構成のお弁当を選ぶのは手配者の知恵。
また、上級者編として、お肉弁当、お魚弁当を同数ずつ注文して選んでもらう、というのも賢い方法でしょう。
いい意味で「無難」かつ外さない、そういう和食のお弁当が、結局日本人は大好きなんです。


2.精進料理

大饗料理以後の特徴的な料理様式としては、禅宗の僧侶による「精進料理」が挙げられます。平安時代末期の中国仏教界では、禅宗が最も重要視されており、そこでは肉食を「けがらわしい」とする思想に基づいた精進料理が主流でしたが、この時代には、奈良仏教や天台宗・真言宗に対する不満が高まり、中国での仏教修行を目指して南宋などに渡る僧侶が少なくなかったのです。

このころは唐代に西方から導入された「水車」の動力を使った製粉技術が発達していて、粉物が大量に供給されるようになっていました。

精進料理は肉を断つため、肉に近い味わいを口にできるように工夫されました。小麦粉や大豆粉などに、味噌などの個性の強い調味料を合わせる必要があり、形が簡単に整えられる「粉」系の食材が重宝されたわけです。

しかも精進料理は、僧侶たちが自分で調理するため、仏教修行のみならず、料理技術も学ばねばなりませんでした。中国で禅宗を学んだ僧たちは精進料理の「調理法」も輸入することになったわけです。

当時の禅僧には有名な栄西や道元などがいますが、道元は『典座教訓』『赴粥飯法』などの著書の中で、食事の意味や禅院における料理当番の役割などについても書いています。おそらく道元は、仏教の立場から初めて、「食べる」ことについて哲学的考察を行った人でしょう。

精進料理は、そのように穀物粉を用いたものや、味付けを工夫した野菜・菌類などのほか、果物が重要な食材として使われました。また、植物性食料を「肉」に見立てて、それに近い味を出そうと工夫したわけです。こうして精進料理は、肉食へのあこがれを調理、調味の工夫によって満たそうとした結果、高い調理技術が発達しました。

こうした料理技術を学び、伝えて行った料理人でもある禅僧たちは「調菜人」と呼ばれました。「庖丁人」が魚や肉をさばき、調理する者、ひるがえって「調菜人」は精進物を料理する者のことを言ったのです。

本格的な精進料理は、重要な「茶礼」でのもてなしの際に禅院で供されたので、調菜人たちは「饅頭」など「点心」類も作ることができたと言われています。

このように、元来は中国から「輸入」された精進料理は、鎌倉期以降における料理文化の展開にも大きな役割を果たしたと言ってよいでしょう。


3.本膳料理

平清盛の平氏政権や源頼朝の鎌倉幕府を経て、武士が権力を有するようになり、ともなって武士固有の食文化も育つことになります。
武士はもとは貴族の従者的なポジションで、たとえば大饗料理の「おこぼれ」として芋粥をふるまわれる、といったシーンが芥川龍之介の小説『芋粥』にあります(原話は平安時代の『今昔物語集』)。
鎌倉時代には将軍によって武士に椀飯(おうばん)が振る舞われましたが、これは椀(埦)に高く盛った「姫飯」に、酒肴や菓子などを添えたものでしたが、これもまだ、貴族の「大饗料理」に比べれば軽食的な食事に過ぎませんでした、武士の料理文化としては、室町時代に発展した「本膳料理」が始めての正式なものでしょう。

「本膳料理」とは、「大饗料理」の儀式的な要素と「精進料理」の技術的要素とがミックスした、本格様式の食事でした。
七五三という奇数の膳で供されたあたり、きわめて日本的な要素が高いものでした。すなわち、卓に偶数の皿に盛られた料理が供される中国スタイルの「大饗料理」とは一線を画した料理文化だったです。
ちなみに膳は、日本国内でも椅子を使わない「座居」の文化を基礎とするエリアに広まったようです。

本膳料理の構成は、酒がある「献部」と食事が主な「膳部」からなりました。2つのうち、「膳部」は汁を伴う点が特徴です。
儀礼的な意味のある初献・二献・三献の「式三献」の献部のあと、七五三の膳という膳部に移り、与(四)献以後、一七献、または二一献という献部が繰り返されたのち、終了となります。
「御成」などの本膳料理の饗宴では、後半の献部に合わせて能が演じられましたから、夜を徹した宴ということになりました。

室町時代以降の非常に盛大な饗宴にはこうした本膳料理が供されましたが、これは大饗料理と同様に、作り置きの料理でした。膳や皿の一部には金銀の装飾も施され、華々しい雰囲気が演出されました。料理の内容についても、日本料理の原型ともいえる「汁」にカツオと昆布の出汁が用いられたのが重要な点です。

こうした出汁の完成は、三陸以北とくに北海道で取れる「昆布」を前提とするもので遠隔から商品が流通されるしくみができていたことがわかります。
またカツオ節の登場も室町時代のことで、まさに今日の日本料理の基礎が、本膳料理によって確立していたことになります。
こうした料理文化の発展につれて、その技術を伝承し磨きをかける「武家料理流派」が台頭し始めました。つまり、旧来の公家系の「四条流」、大草流・進士流・山内流など武家の料理流派などです。
そこでは「故実」や「作法」を含む料理技術が追求され、それを秘事口伝という形で伝えられました。その一部がそれぞれの流派内で料理書として残されてゆきます。


4.懐石料理

本膳料理は儀式用で作り置きだったため、豪華ではあっても料理は冷めた状態で出されました。本膳料理には儀式的な意味合いが強かったため、身分に応じた形式的な料理を供される、食することに意味があったのです。「社会的な食事」だったと言ってもよいでしょう。
いわば堅苦しく儀礼的な、時間も長長とした本膳料理ではなく、コースのすべてではなく、一部でもおいしい部分を自由に楽しもう、という意図を含めて発展したのが「懐石料理」です。

本膳料理の一部を切り取ったような懐石料理は茶の湯の発達に伴うもので、茶会でお茶を最も美味しく楽しもうとする精神から生まれた点が特徴です。茶の湯の世界は精進料理の系譜にも繋がっていて、禅院の茶礼とも関わりがあり、おいしさだけでなく精神面も重視されました。
もともと茶会では、闘茶、すなわち賭け茶が流行するとともに、茶そのものよりも酒が大事にされることも多かったのです。茶会の最後に行われる酒宴の場である後段を、千利休が、戦国時代後期に切り捨て、一汁三菜の料理を基本に、一期一会という精神が重要視されて作られました。
懐石料理で、季節性を重んじて旬の素材にこだわるのも「一期一会」の考え方に発端があるのです。その茶会のただ一時を大切にするため、食器にも心を配り、盛り付けにも気を使いました。季節感と彩り、食器の配置、合理的な作法による饗応のほか、料理を配膳する部屋(空間)のしつらえにも最善の気が配られました。
もちろん温かいものを温かいうちに供すること、料理を出すタイミングにも充分な計算が施されている。世界的にも評価の高い懐石料理はこうして生まれました。

「懐石」という言い方は利休の時代には使われず、むしろ「会席」の方が一般的でした。近世後期になって、大都市に高級料理屋ができ、そこで会席料理が供されるようになりましたが、これは茶の湯とは無関係の料理文化です。
言ってみれば戦国時代に成立した懐石料理から茶の湯の要素を切り捨てたのが、近世の会席料理とも言えるでしょう。連れ立って料理屋に出かけて注文し、会席という形で酒を飲み歓談しながら味わう料理が、会席料理、ということです。

よく知られていることですが、「懐石」とは、禅の修行僧が温かい石を懐に入れて身体を暖め、空腹をしのいだという故事に由来するようで、ここから、茶事で供される軽い食事を懐石と称するようになりました。ちなみにこの由来は江戸時代、元禄期のベストセラー『南方録』で紹介されています(利休が語ったことを記したとされる同書は、現在では偽書であったことが指摘されていますが)。

●ユネスコの無形文化遺産に認定

2013年12月、「日本の伝統的な食文化」がユネスコの無形文化遺産に登録されました。これは、「日本食文化の世界無形遺産登録に向けた検討会」がユネスコに、「『自然の尊重』という日本人の精神を体現した、食に関する社会的慣習としての和食」の認定を検討してほしい、と働きかけていたことも奏功しての結果でした。
ーー一期一会の精神をたっとび、食材の旬を逃さず、それを皿にのせて味わうことで、自然を、四季を感じるという態度。そして、「もてなし」「もてなされる」という主客の関係をベースに営まれる食、すなわち社会的な営みとしての食文化が高く評価されたものでしょう。また、和食文化の歴史、つまり貴族の接待料理から、本膳料理、精進料理、懐石(会席)料理と推移してきた和食の道が世界に理解されたということでもありますよね。


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